袴田事件とは?

 

 

 その夜の出来事

 

 死体は四体。石油のような油をかけられ、火をつけられたので、四体とも黒焦げだった。もちろん家屋も焼失した。

 火災が起きたのは、一九六六年六月三〇日の午前二時少し前である。場所は静岡県清水市横砂。惨劇は、味噌製造会社「こがね味噌」の専務の居宅兼事務所で起きた。殺されたのは、専務(42)の他、妻(39)、次女(17)、長男(14)の四人。長女は、別棟に寝ていたので助かった。

 メッタ刺しにされた死体の刺し傷はあまりに多く、正確な数はわからない。四人の傷の総計は、少なくとも四五ヵ所。警察は、焼け跡から発見されたクリ小刀一本を凶器としたが、先端がわずかに折れていただけだった。刃こぼれもしていない。また、警察の調査によると、約八万円のカネが奪われたというが、専務の家にあった多額の金品は、手つかずに残されていた。

 

 アリバイ

 

「こがね味噌」の従業員だった袴田巖さん(30)は、仕事が終って夕食の後、専務の家に近接した工場の二階にある寮の自室に帰った。同僚と将棋をさした後、テレビドラマを見た。午後一一時過ぎ、パジャマに着替え、消灯し寝た。

 消防車のサイレンの音で目がさめた。グッスリ寝こんでいたので、しばらくの間ウトウトした。「店が火事だ」という隣の部屋にいた同僚の叫び声に飛び起き、パジャマのまま自室を出て駆け降りた。気持ちが動転していたが、とにかく水をかけなければと思い、工場の中でバケツを探した。同僚が「消化器、消化器」と大声で駆けてきたので、一緒に探したが見つからない。やっと消火栓に取り付けるホースを見つけ、同僚たちとホースの束を持って、事務室の前にある消火栓に走った。土蔵の後ろにある物干台に上り、屋根によじのぼった。足をすべらして落ちた時、ブリキか何かで左手の中指に怪我をした。火事は二〇分程で鎮火した。消火作業中に水をかけられズブ濡れになった。

 その後自室に戻った袴田さんは、とりあえず中指の怪我の出血を止めるために、手ぬぐいを引き裂いて縛った。消毒をしなかったので、後に傷跡が化膿して医者に見てもらうことになった。。

 これが事件当夜の袴田さんの取った行動のすべてである。アリバイは完ぺきで、袴田さんと事件との関係は皆無だった。

 

 自白の強制

 

 八月一八日、袴田巖さんが逮捕された。彼は一九日間、無実を主張し続けたが、連日の厳しい取り調べに、モウロウとした状態になり、ついに九月六日、警察の筋書き通りの犯行を自供させられた。その内容は、おおよそ次のようなものであった。

 六月三〇日の午前一時過ぎ、クリ小刀をパジャマのズボンのヒモに落としざしにして、寮の自室を出た。隣家の楓の木から橋本宅の倉庫の屋根に移り、雨樋(あまどい)を伝って中庭に降り、侵入した。家人に発見され、専務を殴り倒し、専務以下四人をクリ小刀で殺害、現金を強奪した。その後死体に混合油を振りかけ、マッチで火をつけて逃げたというのである。罪名は「住居侵入、強盗殺人、放火」だった。

 しかし、この自白を裏付ける物的証拠は何もなかった。警察は、袴田さんを容疑者ときめつける物的証拠を何も発見していなかったのである。元プロボクサーだから「やりかねない」という先入観が、捜査官の頭を支配したらしい。警察の内部文書にも、こう書いてある。

 「本件は、被告人の自白を得なければ、真相は握が困難な事件であった」。

 則ち話は逆なのである。警察は、袴田さんに嫌疑をかけ、逮捕する充分な証拠は何一つ発見していなかったのである。

 こうなれば捜査官は、無理やり袴田さんの「自白」をとる以外に手はなかった。一日の取り調べ時間は、平均一二時間。最高は、実に一七時間にのぼった。袴田犯人説は、警察の拷問が作り出した虚構であることは明白だった。

 

 迷走判決

 

 一九六六年一二月一〇日、静岡地裁で公判が始まった。袴田さんは、公判開始から終始、無実を主張した。しかし六八年九月一一日に出された判決は死刑だった。最高裁でも上告棄却され、一九八〇年一一月一九日、死刑が確定した。

 一審判決文は、死刑判決を出す根拠にとぼしい、およそ日本語としても支離滅裂の文章だった。提出された袴田さんの供述調書四五通のうち、証拠として採用されたのは、たった一通だけである。しかし他の四四通の内容と異なった特別の内容があったわけではない。即ちこの一通の自白調書を採用した論理的根拠は何もなかった。

 判決文では、専務と格闘の具体的状況は不明。妻、二女、長男を刺殺した順序も不明というていたらくだった。また、最初検察側は、犯行時はパジャマを着用していたとしていたが、殆ど血痕がなかった。公判が袋小路に迷い込み始めた六七年八月三一日、突然、工場内の味噌タンクから発見されたということで、大量の血痕が付着した五点の衣類が証拠として提出された。ところが、味噌タンクに入れた際の具体的状況及び日時も判決文によれば不明というのである。具体的には、犯行の実体については、分からぬ一点ばりなのである。

 このような小学生の作文以下の判決文の矛盾を指摘することは簡単である。然し、再審請求棄却決定の文章の中でも一言もふれていない、全く反論出来なかった「五点の衣類」についてだけ述べることにする。なぜなら、袴田さんを犯人として立証できる唯一の物的証拠は、まさにこの「五点の衣類」だけだからである。

 血染めの五点の衣類とは、スポーツシャツ、ズボン、白半袖シャツ、白ステテコ、ブリーフである。血痕の付着状況を血液型で見ると、スポーツシャツはとA、ズボンはA、その下のシャツはBとA、ステテコはA、ブリーフはBとAである。専務の血液型はA型で、万べんなく付着している。妻はB型で、シャツとブリーフだけ、長男は型だが、これはシャツだけである。二女の血液型はO型だが、一〇カ所も刺されているのに全くついていない。血痕付着の整合性があるのは専務だけである。妻のB型血液は、ズボン、スポーツシャツ、ステテコを飛びこえて、シャツとブリーフだけについている。長男のも不自然である。血液の付着状況は経験則に明らかに反しているのである。

 

 凶器とされたクリ小刀の問題。

 

 この問題に入る前に、二〇〇〇年一二月三〇日から三一日にかけての深夜、東京世田谷区上祖師谷で起きた、一家四人全員が惨殺された事件を想起してみよう。

 被害者が受けた傷は、それぞれ十数カ所。合計三十数カ所であった。凶器は文化包丁と柳刃包丁である。文化包丁は先端が折れ曲っていた。柳刃包丁は先端が三つに折れていたとのことである。犯人の手についていたと思われる血痕もおびただしくついていた。

 袴田さんは右手にクリ小刀の柄をにぎり、四四回も四人の被害者を突き刺したことになっている。しかし彼の手の平には、まったく傷がついていなかった。袴田事件の判決文によっても、袴田さんの右手の甲と右上腕部に小さい傷があっただけである。もし袴田さんの犯行であるならば、四四回に及ぶ刺突で、袴田さんの手の平も甲も血まみれになったにちがいない。クリ小刀には(つば)がついていないからである。しかし彼の手の平には切傷がついていなかった。

 第二に、クリ小刀は、先端がわずか一センチ程度折れた程度で、あとは原形をとどめたままである。刃こぼれもない。

 また検察調書で、袴田さんが逃亡したとされている裏戸の問題について、元明大教授の木下信男氏が『裁判官の犯罪「冤罪」』で、詳細で正確な反論を行っている。

 供述調書によれば、袴田さんは、裏戸にかかっていたカンヌキを右によせ、扉の下にあった石や留め金をはずしただけで、上の留め金ははずさずに、下の方を体の出入りできる位開け、無理な姿勢で外に出たことになっている。

 しかし第一審の法廷で、消火に駆けつけた住民の一人は、裏戸は「押しても引いても、びくともしなかった」と証言している。そのため消防士らが体当りで裏戸を押し開けた。そのときカンヌキは二つに折れたのであると木下氏は指摘している。即ちカンヌキはかかっていたのである。そうであるならば、裏戸脱出後、どうやってはずしたカンヌキを外からかけなおすことができたのか。

 このように裁判に提出された証拠群は極めて不自然で、作為のあとが色濃く出ている。何故このようなことが起きたのか。公判の行詰まりにあわてた警察の方で、これらの「証拠」をネツ造したとしか考えようがない。しかし棄却決定でもこれらの問題には全く触れていない。この点こそ袴田無罪を証明する核心的な証拠なのにである。

 こういう殺しの証明法でいけば、誰でも犯人にさせられる可能性がある。お前が犯人だと警察官、検察官がきめつければ、それで終りである。

 

 支  援

 

 袴田巖さんの弁護には、日弁連袴田事件弁護団が当っている。また一九九九年八月に病没した安倍治夫弁護士は独自の立場から、「救う会」と共に弁護活動を行って来た。安倍氏は、吉田ガンクツ王事件、免田事件等の冤罪事件に力を注いだことで名を知られており、五点の衣類についても、早くから再審請求理由補充書でその矛盾を指摘して来た。

 

 一九九四年八月、再審請求から一三年目に静岡地裁は請求を棄却。東京高裁での即時抗告審に対しても、安倍弁護士はさらに詳細にこの矛盾を指摘した。また日弁連弁護団は「五点の衣類」の血液についてDNA鑑定を申請したが、二〇〇〇年七月鑑定不能との結果が出た。二〇〇四年八月二七日、東京高裁第二刑事部(安廣文夫裁判長)は、即時抗告を門前払い同様に棄却。二〇〇八年三月二四日、最高裁第二小法廷も特別抗告を棄却したため、弁護団は静岡地裁に第二次再審請求を申し立てた。

 

 二〇一一年八月、「五点の衣類」のDNA再鑑定が行われることが決定。一二月、弁護側推薦の鑑定人から、犯行着衣とされる「五点の衣類」の血痕と被害者の血痕のDNA型は一致しないとの鑑定結果が出された。袴田巖さんの血痕が着いているとされてきた一点についても、袴田さん本人のDNA型との照合が行われ、袴田さんのDNA型は検出されなかった。二〇一三年には、裁判所の勧告を受けて、六〇〇点に及ぶ証拠が検察から開示された。二〇一四年三月二七日、静岡地方裁判所刑事第一部(村山浩昭裁判長、大村陽一裁判官、満田智彦裁判官)は、袴田巖さんの再審開始を決定、死刑の執行と拘置の執行を停止した。死刑囚の拘置の停止という画期的な決定により、同日午後五時過ぎ、袴田巖さんは、逮捕されてから実に四七年七ヵ月ぶりに東京拘置所から釈放された。しかし、三月三一日、静岡地検が不当にも東京高裁に即時抗告したため、袴田巖さんの再審無罪は先延ばしの状態になっている。

 

 二〇一八年六月一一日、東京高裁(大島隆明裁判長)は再審開始決定を取り消したが、二〇二〇年一二月二二日、最高裁第三小法廷(林道晴裁判長)は東京高裁の決定を取り消し、東京高裁へ差し戻す決定を出した。最高裁の決定では、残念ながらD N A鑑定の証拠価値については認められなかったが、犯行着衣とされた「5点の衣類」の血痕の色が不自然であることを調べた弁護側のみそ漬け実験について、さらに専門的に調べるよう指摘した。ただ、5人の裁判官のうち2人は、本田克也・筑波大学教授のD N A鑑定結果も評価し、「再審を開始すべきである」としており、袴田巖さんの年齢を考えると、最高裁で再審開始が決められなかったことは残念としか言いようがない。現在は東京高裁第二刑事部(大善文男裁判長)で差し戻し審が行われている。

 

 長年東京拘置所に独居拘禁されていた袴田巖さんは、死刑確定後から精神を病み、家族、支援者との面会もほとんど出来ない状態が続いたため、「救う会」と東京二弁有志の弁護士は、袴田さんを外部の医者に見せることなどを求めて、一九九二年から三回にわたり人身保護請求を起したが、裁判所は請求を棄却した。二〇〇三年三月には、保坂展人元衆議院議員の尽力で一二年ぶりにお姉さん、弁護士の面会が実現したものの、その後また面会できなくなり、二〇〇六年一一月からは、定期的な面会が実現、二〇〇七年六月の法律改正後は、支援者との面会も増えた。しかし、拘禁性精神障がいのため、妄想の世界に住んでおり、糖尿病等も患っていた。二〇一〇年夏から二〇一四年の釈放までは、面会出来ない状態が続いた。

 

 「救う会」は、一九九一年、ジュネーブの国連人権小委員会でロビー活動等を展開。二〇〇四年には東京多摩地域のタブロイド紙アサヒタウンズに一面意見広告を掲載した。同年、伊NGO・聖エジディオ共同体主催の「第回世界宗教者・平和のための祈りの集い」(ミラノ)「死刑廃止分科会」に門間幸枝副代表が参加。二〇一六年(アシジ)、二〇一七年(ミュンスター&オスナブリュック)の同集いにも参加してアピール、国際署名を集めている。 二〇〇七年最高裁、二〇一四年二月静岡地裁、二〇一八年二月東京高裁の三回にわたって、請願書と共に熊本典道元静岡地裁判事の陳述書を添えた上申書を提出した。

 

 現在は、司法関連の公開学習会を開いてえん罪への理解を深めるとともに、袴田巖さんがかつて求めていた一〇万人の署名を集めて、二〇一二年に達成したが、引き続き、袴田巖さんの再審完全無罪が実現するまで、署名活動を継続している。また、いまだに「確定死刑囚」で年金もない袴田巖さんのために、「袴田巖さん生活支援カンパ」を二〇一四年から集め続け、袴田巖さん、秀子さんにお届けしている。

 

 なお、釈放された袴田巖さんは、東京と浜松市の病院で静養した後、六月末に、本人の強い希望で退院、姉の秀子(ひで子)さんの自宅で同居している。長年の独居拘禁による精神状態の回復には、まだ時間がかかりそうである。

 

 

                                 「袴田巌さんを救う会」副代表 小松良郎
                      
(小松氏が死去(二〇〇八年)後は、松田が加筆)